旅立ち | 粋に暮らそう。

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粋な男を目指したい!【粋 いき】[名・形動]

気質・態度・身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があること。そのさま。


母が旅立ちました。



 先程、四十九日法要を無事に終わり、今このブログを書いています。

心の中に一区切りつけるため、自分の為に書き残す記事です。

(※明るい内容ではないので、御気になされる方は読まずに飛ばしてくださいね)








父と母、次々にがんになり、

母の病状は既に末期の肺がんでした。

一緒に闘病する為、会社員という立場を捨て、僕は独立しました。



暫くは東京と実家との往復し

食事を作ってあげたりしていたのですが、

既に母の症状は地元のがんセンターでは手に負えないとのことでした。



それから寝る間も惜しんで、本や医学論文など色々調べたり、

セカンドオピニオンで病院を訪ね歩く日々が続きました。


ようやく信頼できる治療を行ってくれる先生をみつけ、

毎週、母と父と僕の3人で実家から東京へ治療へ出かける日々を重ねていきました。



年内しか命が持たないと言われていた症状から、

主治医から「逆転満塁ホームラン」と言っていただける状態まで、

回復し母も家族も喜んでいました。



東京のその病院からは桜の木が見え、

年を越せないといわれていたので、

見れなかったはずの桜を見ることができて、

そのとき母の顔がのパァッと明るくなり

母はとてもとても喜んでいました。



勿論、手術不能の末期がんです。

いつか別れが来る事は覚悟のうえでした。



ただ、少しでも苦しまず、

ちょっとでもたった1秒でも長く生きて欲しい・・・

それが家族の願いでした。



それから抗がん剤の副作用にも苦しむことなく、

がん細胞のコントロールもできている状態でしたが、

色々な条件が重なったのでしょう、

先月末に症状が急変して、母は父に看取られながら旅立ちました。




会社員を辞め独立しながら母に付き添うことが出来たのが、

母との小旅行みたいでとても充実した闘病でした。


主治医の先生のところで母と見た桜が綺麗で忘れることができません。

先生が流して頂いた涙も忘れません。






人の寿命は自分自身で決めて生まれてくる・・・・

という話を聞いたことがあります。



実は初め母は色々な事情から、治療を受けることを拒否していました。

母の隣でノートPCで仕事をしながら寝そべり、

色々思い出話をしながら説得したことを思い出します。



きっと寿命的には「年内持たない・・・」といわれた時だったのかも知れません。

母もきっと心の中でうすうす自分の運命を感じていたのかもしれません。

それでも母は60歳という自分の寿命をギリギリいっぱいまで、

僕たち家族の為に頑張って生きて、傍に居てくれたんだと感じています。

お通夜の夜、それは母の61回目の誕生日の筈でした・・・・



弟と2人で通夜の日、

母の誕生日ケーキを買いに行きました。

家族で誕生ケーキを囲み、最後の家族写真を撮りました。




・・・・・・・




書いても書いても書き足りない・・・・

次々に感情があふれ出してきて、

自分はこんなにも泣き虫だったのかと思い知らされます。。。。






母さん、町なかで発作が起きたとき、

ただただ抱きしめるしかできなくてごめんね。



もっと早く気づいてあげられなくてゴメンね。



何も親孝行できなくてゴメンね。



発作で駄々っ子のようになったか母さんを抱きしめるしかなかったとき、

これからは僕が守るって誓ったのに、

約束守れなくてゴメンね。



いっぱいのごめんなさいと、ありがとうがあふれて

止めることができないよ・・・・




あなたの子供に生まれることができて、

そして育ててもらって

僕は本当に幸せでした。



今度は僕があなたのように、

家族や周りの人たちをやさしく照らせるように、

強く強く生きていきます。



心配でしょうが、

見ててください。



ちゃんと生きていくから・・・・・・




母さんも

そちらで大変でしょうから

どうかお元気で。



また会える日まで・・・・



良い旅を・・・・・




Tak